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   <title>フェルメール・ブルーに魅せられて</title>
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   <updated>2012-01-02T22:55:03Z</updated>
   <subtitle>綺麗な青。</subtitle>
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   <title>おせち料理は栄養の宝庫</title>
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   <published>2012-01-02T03:18:46Z</published>
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   <summary>明治以前の食事は、一汁ニ菜が平均的な料理数で、日常の食生活はひじょうに単調なもの...</summary>
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      明治以前の食事は、一汁ニ菜が平均的な料理数で、日常の食生活はひじょうに単調なものでした。


その一方で、この単調でかつ質素な食生活を打ち破るのが、特別な行事や節句の華やいだ宴の食事だったのです。


そして、前者を&quot;褻の食事&quot;、後者を&quot;晴れの食事&quot;とよびました。


&quot;晴れの食事&quot;は、家族全員の生活をより一体化する目的があり、家族総動員で数日がかりで用意がおこなわれました。


また、生活のすみずみまで特別の緊張感をつくり、日常意識の単調さを打ち破る試みがなされ、特別な目にふさわしい宴の料理として、その土地の産物のすべてを駆使して用意されました。


今日の生活のなかでも、お正月のおせち料理には、わずかに&quot;晴れの食事&quot;が原形をとどめています。


黒豆、栗きんとん、昆布巻き、ごまめ、酢ばす、高野豆腐と野菜、里いもの煮しめ、それにお雑煮。


365日の大部分が粗末な食事であったひと昔前までは、「お正月」とはなんと優雅で、うれしい予感をただよわせたことでしょう。


      
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   <title>世界の農業政策　5</title>
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   <published>2011-12-20T02:34:56Z</published>
   <updated>2011-12-20T22:55:02Z</updated>
   
   <summary>第一に、輸入アクセス、輸入制度については基本的には現状維持ないし数量制限の強化を...</summary>
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      第一に、輸入アクセス、輸入制度については基本的には現状維持ないし数量制限の強化を主張します。


「農業・漁業が有する生産・収穫量の変動性、予見不可能性等の本来的特性から……ガット第11条第2項(c)(i)は存続すべきである」というのが基本的立場です。


その点ではECに近いのですが、ただ日本の場合にはそれに「基礎的食料」の数量制限という主張がつけ加わることによって、結果的には現行以上の数量規制を許容するものとなっています。


ECに比べて、さらに右寄りの主張といっていいし、その点ではアメリカと完全に対極に立っています。


第二に、輸出補助金については「段階的な削減を通じ最終的に撤廃すべきである」という、きわめて簡明な主張となっています。


輸出補助金は世界市場掩乱の最大の要因であり、しかも日本にはまったく関係のないものである以上、こうした主張は当然です。


第三に、ガット・ルール問題については、基本的には現行制度の骨格を肯定しつつも、いくつかの点で技術的なルール改正を提案しています。


      
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   <title>世界の農業政策　4</title>
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   <published>2011-11-19T02:34:16Z</published>
   <updated>2011-11-19T08:50:29Z</updated>
   
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      それらは無条件に適用されるものではなく、その運用にさいして国内的には国内生産水準の明示、国会の意思表明、計画生産の適切な実施、過剰農産物輸出の抑制などの要件を必要とするとともに、他方国際的には関係国との討議を前提。


しかも「他の条約国との交渉に基づくガット上の約束内容に影響を及ぼすものではない」とされています。


要するにこれらのきびしい付帯条件によってその運用を制限的なものとし、これへの国際的な批判をかわそうというのです。


・・・このように日本案の食料安保「制度」はかなり複雑な各種の政策的配慮の下につくられています。


しかし、その問題の核心が米であることは間違いありません。


「基礎的食料」としてイメージされているのは具体的には米であり、これをガット・ルールの下で合法的に輸入数量制限をなしうるよう提案されているのです。


こうした仕組みの適否についてはさまざまな技術的問題がありますが、ここではそこまでは立ち入らない。


日本提案の核心が食料安保問題にあること、提案の各側面も直接・間接にこれとの関連で組み立てられていることを指摘しておけば十分でしょう。


・・・とするならば、その全体系はどうなっているのでしょうか。


      
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   <title>世界の農業政策　3</title>
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   <published>2011-10-08T01:33:36Z</published>
   <updated>2011-10-08T21:55:03Z</updated>
   
   <summary>まず今回の日本提案の最大の眼目である食料安保「制度」についてその内容をみていくこ...</summary>
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      まず今回の日本提案の最大の眼目である食料安保「制度」についてその内容をみていくことにしましょう。


食料安保問題のむずかしさは、それは抽象論ないしムードとしては理解されても、具体的な「制度」として組み立てるのは容易ではないという点にあります。


日本案の食料安保「制度」はほぼ次のように構築されています。


まず、食料安保の観点から「基礎的食料」は「ガット11条の規定に拘らず、必要な国境調整措置」輸入数量制限を講ずる。


この場合、直ちに問題となるのは「基礎的食料」とはなにかという点ですが、提案はこれについて・・・


1．「国民の主たる栄養源」で「国民の食生活においてカロリー摂取割合の重要な構成要素」となっているもの


2．「食料が欠乏する状況にあってはその優先的な国内生産・供給を進めるべきもの」


・・・という二点からおさえようとしています。


つづめていえば、生活視点と政策視点ということになるでしょう。


      
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   <title>人生には厄災の方が多い</title>
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   <published>2011-09-14T08:07:04Z</published>
   <updated>2011-09-14T21:55:03Z</updated>
   
   <summary> 奇妙なことに凶事の前兆は、吉事の前兆よりも3倍も多いように思えるものです。 塩...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://poster-art.info/">
      <![CDATA[
奇妙なことに凶事の前兆は、吉事の前兆よりも3倍も多いように思えるものです。


塩をこぼしたり、パンを黒こげにしたり、ふくろうが金切り声でなくのを聞いたり、蜘蛛を殺したり、蛇をまたぎ越したり、櫛を落としたり、鏡をこわしたり、ヒビのある箇所を踏んだり、朝ごはんの前に笑ったり・・・


これらのことはすべて凶事・災害・不運のやってくる前兆と考えられ、今もなお、そう信じる人が大変たくさんいるのです。


なぜこういう風に凶事の前兆が、吉事の前兆より圧倒的に数が多いのでしょうか？


自然の女神は厭世主義者だったのでしょうか。


この問いに対して真実の答えを得るためには、自然に対してよりも、むしろ人間に対してより多くより深く考察を加える必要があります。


<a href="http://www.uranai-king.com" target="_blank">電話占いの詳細は＞＞</a>


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   <title>照明と森林文化　2</title>
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   <published>2011-09-01T02:44:09Z</published>
   <updated>2011-09-01T21:55:12Z</updated>
   
   <summary>東アジアの照葉樹林文化は、山野に火を放って草木を焼き払い・・・ 降雨のあとその草...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://poster-art.info/">
      <![CDATA[東アジアの照葉樹林文化は、山野に火を放って草木を焼き払い・・・


降雨のあとその草木灰の湿ったところへ、木棒、木製手ぐわを農具としてソバ、ヒエ、アワなどの雑穀やイモ類の種を播いて、肥料を施さずに収穫する焼畑農耕によって生活が支えられてきたものです。


この根栽雑穀を主作物とする焼畑農耕の耕作技術が、後の時期に水田稲作を生み出す・・・


いわば、日本列島につながる稲作文化を生み出す母体になったと考えられています。


稲の起源については、いろいろの説があって、素人の私にはどの説が正しいのか判断に迷うところですが・・・


現在のところ、その発祥地はアジア大陸南東部の熱帯から亜熱帯にかけてという説がいちばん有力なようです。


<a href="http://www.temponotatsujin.jp/SHOP/54606/list.html" target="_blank">かくれん棒</a>などの照明を扱っているわたしの仕事にも、森林文化は深く関わってくるのです。

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   <title>照明と森林文化</title>
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   <published>2011-08-22T02:42:39Z</published>
   <updated>2011-08-22T21:55:03Z</updated>
   
   <summary>雑穀類やイネのなかから数多くのモチ性の品種を開発し、モチという粘性に富むきわめて...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://poster-art.info/">
      <![CDATA[雑穀類やイネのなかから数多くのモチ性の品種を開発し、モチという粘性に富むきわめて特殊な食品を、この地帯に流布させたことも大きな特色だとされています。


照葉樹林文化の中心は、ブータンの東部、アッサムの中東部から北ビルマに及び・・・


中国の雲南省、貴州省の中南部をへて洞庭湖に近い湖南省西南部の山地にいたる、三日月形の肥沃な地帯で[東亜半月弧]と命名されています。


この東亜半月弧はイネ・ダイズ・アズキ・ヒエ・ソバなどの起源地の集中すると思われる辺りに設定されています。


さらに、茶・絹・ナットウ・コンニャク・ウルシ・シン・コウジ・鵜飼などさまざまな文化要素の分布が重なっていて・・・


照葉樹林文化を構成する文化要素が、最も濃密に分布すると思われる地域です。


<a href="http://www.temponotatsujin.jp/SHOP/54606/list.html" target="_blank">かくれん棒</a>を使った照明器具としても人気ですね。

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   <title>壁の上塗　2</title>
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   <published>2011-07-03T03:50:10Z</published>
   <updated>2011-07-07T03:52:23Z</updated>
   
   <summary>眼を転じて東大寺造営に関する天平宝字2(758)年3月17日付の画師名簿によると...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://poster-art.info/">
      <![CDATA[眼を転じて東大寺造営に関する天平宝字2(758)年3月17日付の画師名簿によると・・・


1．塗白土弐人「塗白土須理板四百枚」


あるいは、


2．塗白土緑青同黄画師


・・・等として、明らかに画師と目される人の名をつづけて挙げています。


これによれば白土が画師によって塗られており、特に2．において「緑青」と並記しているところを見れば、白土塗は画師にとって必ずしも特別な技術ではなく、画師一般の工程に加えられていたことが明白です。


もっともこの場合は1．で明らかなように土壁の上に塗られたのではなく、板の上に彩色するためのカンバスとして塗られたものです。


しかし遣鉋を中心とする当時の製材技術では、いかにていねいにすり合せたところで今日の台鉋によるほどの平滑度は得難く、相当な凹凸が残ってくるはずです。


この時代にはまだ<a href="http://www.tosou-navi.jp/" target="_blank">外壁リフォーム</a>技術は存在していませんからね。


この程度の表面精度であれば、土壁の中塗仕舞でも充分に得ることができるでしょう。


・・・つまり、当時、画師による板面への白土垂が可能であれば、同じ職種による中塗面への施工も当然に可能であったはずです。


ここで想起されるのは、法隆寺五重塔初重内壁の壁画下地壁の仕様でしょう。

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   <title>壁の上塗</title>
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   <published>2011-06-27T03:49:01Z</published>
   <updated>2011-07-07T03:52:23Z</updated>
   
   <summary>仏堂でも南軒の木間だけにしか白土塗が行なわれていないので、他の堂宇で、壁も含めて...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://poster-art.info/">
      <![CDATA[仏堂でも南軒の木間だけにしか白土塗が行なわれていないので、他の堂宇で、壁も含めて上塗の行なわれないところのあったのもまた当然でしょう。


なお下・中塗用の土が役夫によって採取ないし運搬されているのに、白土についてはわざわざ土工が採掘地まで派遣されているのは・・・


やはりこの材料の扱いに関しては専門的知識が要求されたためと考えられます。


・・・以上、下地の作成から中塗までの工程を見ましたが、しかしこれだけでは、壁の上塗に当った職種が不明です。


僧房はもちろん、経蔵もあるいは上塗を施さなかったかもしれないのですが・・・


仏堂は、たとえ一部でも木間に白土塗が行なわれているのですから、そこの壁が全く中塗仕舞で停められたとは考え難いでしょう。


これはまだ<a href="http://www.tosou-navi.jp/" target="_blank">外壁リフォーム</a>技術などがなかった頃の話なのです。


既に土工が白土の調達に携わり、木間を塗っているのですから、壁の上垂施工も当然可能であったにもかかわらず、その記録は全く現われません。

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   <title>世界の農業政策　2</title>
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   <published>2011-06-15T01:33:05Z</published>
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      農産物貿易にせよ、ガット・ルールにせよ、基本的には現状を肯定したうえで、そのごく表層部分だけを手直しするというものです。


その点では先のアメリカのラジカルな改革案とは完全に対照的です。


これについてアメリカが「米国とECの立場にはもともと隔たりがあるので、驚くべきことではない」としてきわめて冷淡な態度をとっていたのも当然です。


日本案の特徴は、EC案に比べても一段と強烈に農業の特殊性とくに輸入国の特殊性を押し出してきている点にあります。


・・・つまり、それは「支持及び保護の約束に関する交渉はルール交渉の進展と一体として進める」として交渉の大枠を認めたうえで、「各国は貿易政策以外の要因が自国の農業政策の運営に当たり考慮されていると認識しています。


農産物の輸入依存度が高い国においては、非貿易的関心事項、就中、食料安全保障の要請は強い」とその基本姿勢を鮮明にしています。


こうした「非貿易的関心事項」、「食料安全保障」という表現は、日本の強硬な主張により先の中間「合意」にも盛り込まれたものですが、第二次提案の特徴はこれを具体的な制度として組み立て、これに応じたガット・ルールの改正を提起している点にあります。


      
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   <title>世界の農業政策</title>
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   <published>2011-05-29T01:32:12Z</published>
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      国際・国内両政策をふくめた「支持の総体」が交渉対象であるとする以上、これはECとしては当然の帰結です。


個別政策は主権に属するものであり、これについては交渉の対象とはしないというのがECの基本姿勢です。


いいかえれば、「支持の総体」が交渉を通じて削減され、バインドされた場合、これをどのような政策に割りふるかは各国の自由とされています。


アメリカ案に比べて、はるかに許容度が高い案といっていいでしょう。


国内政策についての唯一の例外は、可変課徴金について「可変課徴金額は、国際価格と境界価格の差を超えてはならない」として自らをしばっている部分ですが、これはECの妥協を示すというよりはむしろ国内向けの顔として理解すべきでしょう。


それに、交渉方式としては、全面的なAMS依拠方式であることは改めて断わるまでもないでしょう。


けだし「支持の総体」を客観的・計数的に示すものは、ECによればAMSだからです。


・・・以上にみたように、EC提案はきわめて現実主義的です。


      
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   <title>旅の歌　4</title>
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   <published>2011-04-17T03:46:21Z</published>
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      「射水」は現在の富山県射水郡、高岡市、氷見市もそこに含まれていました。


駅館があったのは、現在の新湊付近でしょう。


やや立ち入って一首を解すれば、旅人は、日常生活の中では決して味わうことのない、海辺の夜明けの目覚めを、今、味わっているのです。


都人が海を見ることなどほとんどない、そんな時代のことです。


波の音でねむれずに夜を明かしてしまったのかもしれない。


と、まだ、暗い海の方から、櫓を漕ぐ音が聞こえてくる。


聞きなれぬ音だけに、やけに「つばらに」(はっきりと)聞こえてくる。


・・・ここ第三句までは、以上の意で、短歌の構造としては序詞の役を果しているわけです。


「つばらつばらに吾家し思ほゆ」を起しているのです。


なかなか巧みな歌で、山上憶良の作または憶良の息子の作とする伝えがあったことがわかります。


当時、しかるべき歌人の作と推定されただけの歌格の高さのある歌です。


この歌が、「駅館の屋の柱に題し著け」られていた、とする題詞(詞書)に私たちは注目しましょう。


当時の旅、当時の旅人、当時の旅と歌について考える糸口を与えてくれるだろうからです。


      
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   <title>旅の歌　3</title>
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   <published>2011-03-17T03:44:02Z</published>
   <updated>2011-07-07T03:52:23Z</updated>
   
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      日本の風物を詠むのとほとんど変りなく外国の風景や生活を歌にとりこんで、しかも旅の心の息づきは切々としています。


海外旅行詠となると多くは感情の稀薄な囑目詠になりがちな短歌が、茂吉の手になると、西欧の風物や生活に対しても立派に大手をふってまかり通っているという感じです。


こういう点を見ると遙空の旅のとらえ方には深い感覚をよび起す知的営為があり、茂吉のとらえ方にはより感覚的でいちずな仔情の凝縮があると言えるようです。


・・・いずれにしてもこの両人によって、短歌は新しい旅の歌の姿を近代において持ち得たのだといえるでしょう。


短歌の中にひそむ日本人の心の生命力は、わたしたちの予想以上に強く久しいのです。


交通網の充実万葉集巻十八に次の歌があって、奈良朝時代の旅を考え、旅の歌を考える揚合の、かっこうな手がかりを与えてくれます。


射水郡の駅館の屋の柱に題し著けたる歌一首


朝びらき入江こぐなるかぢの音のつばらつばらに吾家し思ほゆ　(巻十八)


・・・上の一首は、山上臣作れり。名を審らかにせず。或は、億良大夫の男なりといへり。但、その正名は。毒らかならず。


一首の意味は、


「夜明けのくらやみを、押し開くようにして入江を漕ぎ出してゆく舟の櫓の音がはっきりと聞こえてくる。


そのように、なぜかはっきりと奈良のわが家が思い浮かぶことだ」


・・・というくらいに解されます。


      
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   <title>旅の歌　2</title>
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   <published>2011-02-17T04:42:21Z</published>
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      迢空とは歌柄も違い、考え方も違うけれど、斎藤茂吉には卓抜した伝統詩人としておのずから日本人の長い旅の心に通う詩情がそなわっていました。


ふりさけて峠を見ればうつせみは低きに拠りて山を越えにき


感情で一気に押し切って歌っているのですが、しかし、こういう歌にとらえられている茂吉の旅の把握のたしかさ、人間の生きるいとなみを思うことのこまやかさは、図抜けたものがあります。


茂吉における写実とはこういう次元のものをいうのだと、つくづく感じさせられます。


こんな茂吉ですから、2年間のドイツの生活においても、さほど歌心を細らせずに歌を詠むことができました。


チロールの山の奥なる限りなきアルプの山に陽はかたよりぬ


はるかなる国とおもふに狭間には木精おこしてゐる童子あり


緑なる平野より来て　Donauに支流のあふは寂しかりけり


      
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   <title>旅の歌</title>
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   <published>2011-01-17T04:38:04Z</published>
   <updated>2011-07-07T03:52:23Z</updated>
   
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      伊勢湾の奥、伊良湖崎にまつわって海人部が伝えた麻績王の伝承と歌のあわれとは、遙か後世になってその地に流諦している愛弟子杜国をたずねてゆく芭蕉の心を刺激しました。


更に明治になって、この地に一夏を過した若き柳田国男の心を刺激し、それが藤村に「椰子の実」の詩を作らせます。


その一方、柳田の心に最晩年の著『海上の道』に至るまでの、日本人の南方からの海上移動の跡を研究させる情熱を湧きたたせたのです。


近代になって、日本人の心の底に流れる旅の歌の伝統を、学問研究の上にも、詩人としての実感の上にも最も確かな形でつかみ取っていたのは折口信夫・釈迢空でした。


人も　馬も　道ゆきつかれ死ににけり。旅寝かさなるほどの　かそけさ


葛の花　踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり


なき人の今日は、七日になりぬらむ。遇ふ人も、あふ人も　みな旅びと


・・・こういう歌は、すべて迢空自身の苦しい旅の中から生まれています。


自分がいましている旅を、決して自分ひとりの体験だけにとどめないで、長い長い民族生活、民族心理の過程の中でとらえることによって、一層遠い旅の思いが自分のものとなるのです。


三首の歌に共通している三句の切れめは、現実と、その背後にはろばろと連なるものの久しさと、二つの世界をつなぐ重い間あいの働きをしています。


      
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